第4回「ハンガリー旅の思い出」2007年コンテスト作品

C賞 原(武)さんの作品


ハンガリーの旅の思い出
「私の中欧旅行」


@ 友
 「中欧旅行を計画している」と大学時代の友人からメールを受けたのは2006年の暮れであった。彼は学会などで多くのいろんな国を訪れている。ところが私は60歳になるまで飛行機に乗ったことがなかった。つまり外国に行ったことがなかった。

 そんな私を彼は2005年5月、イタリア旅行に連れ出してくれた。奥様とお嬢さんの家族旅行を計画しているが一緒にどうかと誘ってくれたのである。親密な家族の旅に他人の私が同行するのはご迷惑であろうと思われたが、小規模のツアー旅行で同行するのだと思えば良いから気にすることはないと言ってくれた。私の妻は2001年に亡くなり、子も独立して1人で生活の日々である。はじめての海外旅行としてミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマを訪ねることができた。

 イタリア旅行もそうであったが、今回の中欧旅行も彼がインターネットなどをフルに利用してコース・航空・鉄道・ホテルなどすべて調べて綿密な計画を立てて、具体的な日程をエクセルに記述してメールに添付してくれた。フランクフルト・ドレスデン(ドイツ)、プラハ(チェコ)、ブダペスト(ハンガリー)、ウィーン・ザルツブルグ(オーストリア)を鉄道で訪ね、1ヶ所2〜3泊のゆったりした時間を取り、少しでも現地の生活の雰囲気に触れたいとのこと。今回は彼夫妻と彼のお姉さん夫妻と一緒。お身内の旅行に私が同行することの失礼を思ったが、計画表に書かれた行程の魅力にひかれ参加させていただきたいとお願いした。

 出発までに4回も改定するほどに練り直し5月14日に最終版の行程表が送られてきた。詳細・綿密な旅行行程表に私は改めて感歎し彼の好意に感謝した。


A 数学者
 2004年のNHK教育テレビ「人間講座」で「数学の愛しかた」という講座が8〜9月に開講された。講師はピーター・フランクルという数学者。ハンガリー生まれ。国際数学オリンピックで金メダルを取得、ジャグリングでサーカス芸人国家試験にも合格、1988年から日本在住とのこと。講座のテキストを読んで、初めて私はハンガリーという国についていくらかの知識を得た。

*日本と比べると国土面積は4分の1、人口も12分の1、約1000万人で東京の人口より少ない。
*ハンガリーでは人の名前の呼び方は〈姓・名〉で、日本と同じ順番とのこと。
〈ピーター・フランクル〉は欧米式の呼び方で、ハンガリー式では〈フランクル・ペーテル〉となる。

*ハンガリー人が誇りにしていることのひとつにノーベル賞受賞者の多いことで15人。うち11人は自然科学の分野(物理学、化学、医学、生理学)での受賞。

*情報社会を支えているのがIT(Information Technology)。その基礎となっているのがコンピューターとそれに関連する理論や技術。コンピューターの生みの親で〈20世紀最高の頭脳〉といわれたジョン・フォン・ノイマン(1903〜1957)はブダペストの裕福なユダヤ銀行家の息子。

*ハンガリーも日本もほとんど同じ時期に大きく伸びた。すなわちハンガリーは1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国となり、内政的には独立した立憲国家として近代ハンガリーの黄金時代が始まった。それは日本の明治維新のころで明治元年は1868年である。

*9世紀末にマジャール人によって建てられた国で、ローマ教皇から贈られた王冠を用い、西暦1000年にイシュトヴァーン1世が戴冠して以降はハンガリー王国となった。

*1241年、モンゴル帝国により完全に焼け野原にされた。

*15世紀からはオスマン・トルコのヨーロッパ侵攻がはじまり1526年にはハンガリー国王(ラヨシュ2世)までが命を落としてしまい、以後150年ほどオスマン・トルコの支配を受けた。

*そのトルコ軍を退けたのは、オーストリアのハプスブルグ帝国で、ハンガリーは18・19世紀を通じてその支配下にあった。

*ハプスブルグ帝国は1850〜60年代にかけてイタリア、ドイツとの戦いに連敗して弱体化した。オーストリアは、常に帝国からの独立を志向するハンガリーをつなぎとめるために1867年、歴史的な『和解』をし、オーストリア・ハンガリー帝国が成立した。

*第1次世界大戦の敗戦によってハプスブルグ帝国は崩壊し、ベルサイユ条約に基づいてもとの領土の半分に縮小されたハンガリーは完全独立を手にした。

*第2次世界大戦では枢軸側(日独伊)側に立って参戦し再び敗戦国になった(1945年)。

*1949年に社会主義を標榜する国家として発足、ソ連を盟主とする東欧諸国の1つとなった。

*ベルリンの壁(1989年)の前後、ハンガリーはようやく自由で民主的な国、ハンガリー共和国として再出発した。

 その後、1993年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟、2004年にはEUに加盟。

この講座のテキストを読んだ頃、ハンガリーは遥かに遠い国で私自身が旅することなど思いもしなかったことで、テキストの表紙にライトアップされた「橋」の写真が載っているのだが、それがブダペストの「くさり橋」であることなど全く知らなかった。


B 優しさ 
 ブダペストの「東駅」に着いたのは2007年6月4日の午後2時過ぎ。5月28日の午後に成田を出発、フランクフルト(2泊)・ドレスデン(2泊)・プラハ(3泊)を訪れた後、プラハを朝7時32分に出発して、約7時間余の鉄道の旅だった。
 駅前に近いホテルにチェックイン、しばらく休憩の後、ホテルのフロントで「ブダペスト・カード:48時間」を購入し市内の見物に出かけた。小遣用として駅で10,000円をハンガリー通貨フォリントに両替する(換算レート約0.67程度)。

 ハンガリーの首都ブダペスト。ドナウ川をはさんで西側のブダと東側のペストの二つの地区から成り立っていて、ブダ地区には王宮をはじめとする歴史的建造物が立ち並び、ペスト地区は商業を中心に発展、1849年にブダ側とペスト側を結ぶ「くさり橋」が完成、1873年に合併して現在のブダペストになったという。地下鉄を利用してブダ地区を訪ねることにする。地下鉄にはM1,M2,M3の三つの路線がある。西岸のブダに行くにはドナウ川の下をくぐって西岸に通じているM2を利用する。「東駅(Keleti pu)」で「南駅(Deli pu)」行きの地下鉄に乗った。終点の「南駅(Deli pu)」で降りて「モスクワ広場」に出る。ここから「王宮の丘」方面に行くにはどうしたものかと地図を出してあれこれ探しているとき、若い日本人女性が話しかけてきて、バスの乗り場を教えてくれた。留学生として滞在しているという。思いかけず親切に声を掛けていただいて、とても嬉しく助かった。
 バスを降りた頃は既に夕方5時近くになっていたので、「マーチューシュ教会」の前を歩いて、「漁夫の砦」に行く。「ブダペスト・カード」があると入場料は割引とのことなので券売所で券を求めて砦の回廊に上ることができた。眼下にドナウ川(Duna)が流れ、足元にブダ地区、対岸にはペスト地区の街が広がる。ブダ側とペスト側を結ぶ「くさり橋」も見えた。ここで走り書きスケッチ。時間も遅いので国立美術館、歴史館などにも入らずケーブルカーで「くさり橋」まで降りる。
 夕食は「Menza」というレストラン。若い人たちの多い大衆的なお店である。何はともあれビールで乾杯。ハンガリー料理といえばパプリカ(Paprika)とのこと。グヤーシュというパプリカ入りの牛肉と野菜の煮込みスープやピクルスなどを頼む。量が多くて1人分といっても1人では食べきれないくらい。価格は日本の1/2程度という感じだった。

 6月5日の午後、ペスト側「西駅」の近くのショッピングモール(West End)へ買い物に出かけたのだが、場所がよくわからず地図を見ていると若い女性が声をかけてくれた。日本語でスラスラと話してくれる。神戸大学に留学して日本に滞在していたとのこと。戸惑っている様子を見て何の躊躇もなく声をかけ親切に教えてくれる。たまたまの出会いだったとしてもブダペストは優しく温かい人たちで、旅人を受け容れ親切に対応してくれる。
 どこの国にも旅人に優しい人はいるし、逆に旅人を狙う人もいるだろう。しかし、私の直感であるが、ブダぺストは歩いていても安心できる街、そんな雰囲気のある街と思われた。どうしてなのだろうか。漢字で「優」という文字は、「人」の偏(つくり)に「憂」と書く。つらいこと苦しいことなど憂い・痛みを我が身に体験した人は、他者の痛みも我がことに思われて自ずと優しくなる、そのような人を優(すぐ)れた人という、という話を聞いたことがある。私には思い及ばぬことであるが、ハンガリー建国以来の幾多の苦難の歴史を生きてきて人々は自ずと優しいのだろうか。

 ベルリンの壁(1989年)の前後、ハンガリーはようやく自由で民主的な国、ハンガリー共和国として再出発したとのことであるが、「West End」 のショッピングモールはファースト・フードのマクドナルドやコカコーラなどの店もあって多くの人たちで賑わっていた。

C 出会い
 6月5日。晴れて気持ち良い朝。友人夫妻と彼のお姉さん夫妻は市内の観光ツアーに参加、私は1人でスケッチに出かけることとし、午後2時に「くさり橋」の東詰にある「ルーズベルト広場」で落ち合うこととになった。

 「東駅」前から「ラーコーツイ通り」を西へ2km余り歩けば「ドナウ川(Duna)」の「エルジェーベト橋」に行けるはずである。ビルの並ぶ大通、店舗のショウウィンドーを眺めながら歩くのは楽しい。小さなスーパーがあったのでペットボトルの水を買う。ハンガリー語はわからないし英語も覚束ないが、パントマイムのごとく動作で示せばある程度のことは通ずる。

 ガラス器のお店があった。ショウウィンドーに置いてあるものがなかなか良い。お店に入って見せていただくことにした。背負ったリュックを入り口で下ろして床に置き店内を巡る。奥行きが深く、両側の陳列棚に様々なガラス容器が整然と飾ってある。単なる観光客相手のお店ではなくブダペストの街に深く根付いている老舗のようだ。姉から旅行の費用の足しにしなさいと私にとってはずいぶんと高額な餞別を頂いた。お土産などは要らないと言われたが何か記念になるものをと思っていた。
 お店の中を巡っているうちに高さ30cmほどの青いガラスの器に目が止まった。もう一つはやはり高さ30cmほどの乳白のガラスの器。記念の買い物なので店内を数回も巡ってみた。クリスタルカットの細かい細工も素晴しいが、結局、この二つに落ち着いた。

 「Visa Card OK?」と聞くと「OK」。

 「Can You send this to japan?」と聞くと「OK」。

 まともな会話にもなっていないが、それでも私の思いは伝わったようである。一つは姉に一つは自分にと決めて契約した。旅の途中であり持ち運びもできないので郵送してもらうことにした。遠い国で簡単に買い物をして無事届くだろうかとも思ったが、街角で親切に道を教えてくれる人たちが生活しているブダペストである。お互いに人間として信頼出来る。お任せで良い。ところで、このガラス器はハンガリーのどこでどんな人が作ったのだろうか。作者の思いがカタチとなってお店の棚に置かれ、日本から来た私が見て良いなぁーと感じた。ガラス器を通して人と人との思いが通じたということだ。嬉しい気持ちだった。

 帰国後、2週間ほどで新潟の自宅に郵便局から配達されてきた。壊れないように緩衝材で丁寧に梱包されてきた。取り出すとブダペストの思い出が甦ってくる。自宅の床の間に飾ってみた。和風の空間にハンガリーのガラス器が違和感なく落ち着いている。国の違い言葉の違い人種の違いはあっても美しいものを美しいとする感性などは人間として共通なのだろう。人間の根源的なところからみれば、国・言葉・人種などは表層的なものなのだと思われた。

D 橋
 ラーコーツイ通りを西へ歩いて行くとドナウ川(Duna)の「エルジェーベト橋」に着く。橋の長さは300mくらいであろうか。川幅いっぱいに水が流れている。大きな観光船が幾隻も岸壁につながれ、また運航している。西岸の高い丘の上に建つ王宮、ドナウ川に架かる「くさり橋」、その風景が私の眼の前に広がる。橋の上でスケッチする。

 コンパクトで高性能なディジタルカメラが普及している時代に、拙いスケッチなど何故描くのかと思うことがある。短時間で描くとなれば簡単な線を引くくらいのもので、描いた本人が辛うじて分かるメモ程度のものである。しかし、また考えてみれば、「いま・ここ」は「今・此処」しかない。「いま・ここ」にいる私の「眼・鼻・耳・舌・身・意」で感じるすべてが1本の線に籠められていると思えば、拙いながらも自分なりに納得できることである。そんな大袈裟な理屈をつけたりして自己満足のスケッチを旅の間に何枚か描いた。
 もともと、ブダペストは3つの独立した町であったという。ローマ時代の遺跡が点在するオーブダ、13世紀以来王宮が築かれ一時は中欧最大の都市として栄えたブダ、商業を中心に発達したペスト。ブダ側とペスト側は10年の歳月をかけて完成した「くさり橋」によって1849年に結ばれ、1873年に3市が合併して現在のブダペストになったという。第2次大戦で被害を受け現在の橋は1949年に復元された。

 「エルジェーベト橋」は1903年に完成し、当時としては世界最長の吊り橋だった。1945年にドイツ軍によって爆破され1964年に再建。白いシンプルな現代的な橋である。ブダペスト市内でドナウ川(Duna)に9本の橋が架かっているという。他の橋を見る機会はなかったが、それぞれに歴史を持ったものであろう。

 今回の中欧旅行で訪れたいずれの都市もその中心には川が流れている。
フランクフルトにはマイン川(ライン川に合流)、ドレスデンにはエルベ川、プラハにはブルタバ川(エルベ川に合流)、ブダペスト・ウィーンにはドナウ川、ザルツブルグにはザルツアッハ川(ドナウ川に合流)

 遥かな昔、人が移動して川のほとりに住み着き、町が生まれ、発展して都市になった。川には橋が架かっている。

 ドレスデンは「エルベのフィレンツェ」とうたわれているという。泊まったホテルはエルベ川のほとりにあった。10階の部屋からはツインガー宮殿、ドレスデン城、フラウエン教会などの塔が立ち並ぶ風景が見える。夜9時を過ぎてもなお明るく、やがて沈む夕陽がエルベ川の水面を輝かせ、石造りの「アウグスト橋」がどっしりと影を映していた。
 プラハのヴルタヴァ川にかかる「カレル橋」も思い出深い。6月2日にはヴルタヴァ川岸辺のカフカ記念館の近くにあるレストラン(HergetovaCihelna)で夕食だった。まだ陽の明るい内に入ったのだが、暮れてくると「カレル橋」がライトアップされた。

 (「カレル橋」は1357年にカレル4世の命で着工し60年ちかく要して完成。全長530メートル幅 10メートル。)
 プラハ・ヴルタヴァ川・カレル橋・カフカ記念館・川辺のレストラン・ドボルザーク・スメタナ・・・私の人生にこのような時間が与えられることなど考えもしないことであった。しかし、友はじめ、いろいろな人の好意とご縁で確かにいま私はここに居る・・・、ライトアップされた幻想的なプラハの風景に浸りながら人生の不思議を思い感激であった。

 ザルツブルグでは駅に近いホテルからザルツアッハ川へ出て川沿いに歩いた。川の向うに教会や急峻な山が見えた。岸辺の道に所々置いてあるベンチに坐ってスケッチをする。手をつないで散歩している老夫婦、赤ちゃんを乳母車に乗せた若いお母さん、若いカップル、木陰のベンチに坐って本を読んでいる女性、とても心落ち着く風景だ。できることならザルツブルグにこのまま住むのもいいなぁーと思った。
 イヴォ・アンドリッチというノーベル賞作家の著書「サラエボの鐘」(田中一生・山崎洋訳;恒文社)の中に「橋」という文が載っている。

   人間が本能に駆られて創立し建造したあらゆる物の中で、私の眼には、橋ほど善にして貴重な物はない。それは家より大切で、さらに一般的であるだけに、聖堂より聖いのである。誰にでも属し、誰に対しても公平かつ有益であり、人々の需要がもっとも多く交錯する場所をいつも考えて造られ、他の建造物より久しく耐え、秘密や悪には決して仕えない。・・・。
   実のところ、橋はどれも似通っていて、それぞれが注目に値する。なぜかと言うに、それは人間が障害と出くわした処、だが怯むことなく、おのれの理解と好みと諸般の事情に応じて可能な限りこれを克服し、架橋した場所を示しているからである。 そして、橋のことを考えたとき、思い出されるのは自分が頻繁に往来した橋ではなく、いちばんわたしの眼と心を引き留め、魅惑した橋である。・・・・・。
   こうして、世界の到る処、わたしの思いが向かい留まるところはどこでも――われわれの魂や眼や足の前に立ち現れるものすべてと関わり、調和し、結び合い、決して分割されるたり敵対したり離別したりしたくないという永遠の、いつまでも癒すことの出来ぬ人間の願望のように、忠実でもの静かな橋に出会うのである。(241〜243p)

E 車窓
 ブダペストには2泊しただけであるが、温かい思い出が印象に深く残った。ブダペストを後にしてからウィーン、ザルツブルグを訪ねた。ザルツブルグから鉄道でフランクフルトに戻りフランクフルト空港から帰国となる。都市間の移動は鉄道であった。ザルツブルグ近辺では急峻な山が見えたが、鉄道から見る風景はどこも広い田園風景だった。日本の水田風景のように平面ではなく、ゆったりとなだらかな起伏の連なりだ。麦や牧草が植えられているのだろうか?広い平野のところどころに赤いレンガ屋根の集落があり、集落の中心にはひときわ高く教会のドームが見える。そんな風景が車窓に連なっていた。
 フランクフルト空港をJAL408便が飛び立ったのは6月12日の21時05分。
夜の遅い空は夕陽に輝いていた。
 ピーター・フランクルは講義のテキストの中で次のように言っている。
「世界をまわるなかで、世界には実に多くの国があり、いろんな人がいて、さまざまに暮しているのだと知り、自分のなかにあった垣根のようなものが取り払われていくのを実感した」(テキスト47p)
今回の中欧旅行で、私の感じたことも同じである。
この旅を計画してくれた友には本当に感謝である。
ハンガリーのガラス器を、見れば見るほど味が出ると姉夫婦はとても喜んでくれた。

参考資料
 *ピーター・フランクル著「数学の愛しかた」NHK人間講座テキスト:2004年8〜9月
                               (日本放送出版協会)
 *「地球の歩き方」;「ウィーンとオーストリア」、「ウィーン・プラハ・ブダペスト」、
「ドイツ」           (潟_イアモンド・ビッグ社)
   *イヴォ・アンドリッチ著「サラエボの鐘」(田中一生・山崎洋共訳 恒文社)
   *菱沼孝夫編「中欧旅行行程表」(2007年5月14日)
   *ハンガリー政府観光局から頂いた各種資料
   *訪れた各地で頂いた各種資料

2007年10月